● google画像より
● Wikipediaより
アンザック・デイに並んで「オーストラリア空襲記念日」がつくられるらしい。
この日は今後、日本人にとって恐怖の日になるだろう。
静かに、家にこもり外へ出ないようにしないといけない。
危険がいっぱいになる。
『
NICHIGO PRESS 2011年11月18日
http://nichigopress.jp/ausnews/world/30636/
軍事色の強いオバマ米大統領訪豪
ダーウィンでは基地の米豪将兵慰問演説
11月17日、バラク・オバマ米大統領は三度目の正直として訪豪を果たしたが、それもわずか26時間の滞在で、米豪共同発表や日程は非常に軍事色の強い「地域安全保障」に終始した。
オバマ米大統領は、昼前に連邦議会上下院議員出席で来賓演説をしたが、第一次世界大戦や60年のANZUSに基づく歴戦で米軍と豪軍が常に協力してきたことやオーストラリアが戦争で多大な犠牲を払ってきたことを賞賛するといった内容に終始した。
北部準州に到着したオバマ大統領は、ダーウィンの1942年の日本軍空襲被災者追悼碑を訪れた。
そこからダーウィンの豪空軍基地に移動し、基地では巨大な格納庫に設定されたステージにジュリア・ギラード連邦首相と登壇すると、格納庫を埋め尽くした2000人ほどの豪将兵からロック・スター並の歓呼を浴び、オーストラリア口語で挨拶を始め、「オジー、オジー、オジー」と叫ぶと、将兵から、「オイ、オイ、オイ」の声が返ってきた。
[注],写真はAFP=時事から
ここでも、
「オーストラリア兵は世界でも最高の兵士。
伝説的だ。
君たちは両国同盟のバックボーンだ。
世界でももっとも勇猛な戦士だ」
と賞揚している。
また、
「両国は第一次世界大戦以来共に戦ってきた。
ある意味でダーウィンは両国同盟発祥の地だ。
ダーウィンは、1942年2月に日本軍の爆撃を受けた、いわば『オーストラリアの真珠湾』だ。
両国は、劣勢な時でも名誉と勇敢さで反撃してきた。
立ち直り、埃を払い、再建してきた。
太平洋戦線の情勢が徹底的に変わったのは珊瑚海、ミッドウェー、パプア・ニューギニアのミルン湾など一連の海戦からだ」
と語った。
(訳注:第一次世界大戦中は日本が協商国、いわゆる連合国の一員として参戦し、日本海軍艦船が英連邦豪海軍艦船を地中海まで護衛するなどの協力行動があった。
オバマ大統領の演説内容は間違ってはいないが事実関係を取捨選択し、歴史の流れを書き替えていると言える)。
さらに、キャンベラで発表した通り、
「米海兵隊のダーウィン豪軍基地駐留人員を2,500人にまで増員する」
計画を語った。
演説後、将兵と握手で会話を交わした。
ギラード首相も将兵を賞揚し、
「旗を高く掲げ、オーストラリアの高邁な理想を支えてもらいたい」
とねぎらった。
この日の格納庫内の聴衆は国防軍将兵の他にも政界、経済界、スポーツ界の大物が列席、両首脳の挨拶の他には、軍楽隊、ジェフリー・グルムル・ユヌピング(ユヌピングは北部準州先住民族の有力な一家)、ジェシカ・モーボイらの演奏を聴いた。
オバマ大統領は、米空軍大統領専用機でダーウィンを離れ、バリで開かれるASEAN会議に向かった。
オバマ大統領を見送った翌日、ギラード連邦首相は、
「2月19日を、第二次世界大戦中の日本軍による
ダーウィン空襲の日
として公式に設定することを提案する」
と発表した。
北部準州出身のトリッシュ・クロッシン上院議員の共同声明で明らかにされたもので、連邦総督に、同日を「ダーウィン空襲の日」として公式宣言するよう答申すると述べている。
ただし、この日を祝日にするかどうかは各州・準州政府の所管事項。
2002年2月19日は「ダーウィン空襲」70周年にあたる。
この空襲では243人が死亡、米軍艦船も沈んだ。
グレアム・ソーヤー・ダーウィン市長も、連邦政府の提案を支持し、
「ダーウィン市議会は何年も歴代連邦政府にこの日を公式な記念日とするよう働きかけてきた」
と語っている。(AAP)
』
Wikipediaから。
『
1942年2月19日のダーウィン市への爆撃は、日本がオーストラリア本土に対して行った最初にして最大規模の攻撃だった。
2月19日、4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させた。
これらの188機の日本海軍艦載機はポート・ダーウィンに甚大な被害を与え9隻の船舶が沈没した。
同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、街と王立オーストラリア空軍(RAAF)のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。
これらの攻撃に使用された弾薬量は、先日の真珠湾攻撃の総量を凌ぐと言われている。
多くの民間人と共に、軍すらも街から避難してしまったため、損害の確認に手間取ることとなったが、最終的に確認できた連合国側の人的被害は251人が死亡、300人から400人が負傷し、その大部分はオーストラリア人以外の連合国軍水兵たちだった。
ダーウィン市を防衛していた空軍は、わずかに日本機4機を撃破できただけだった。
全く無警戒であったオーストラリア側には
「フットボール競技場で我々が受けとった最初の通報は、海上での空中戦という誤報だった」
「空襲の警報システムなどなかった。それどころか、我々は実弾を撃ったこともなかった」
「弾を命中させることがまったく困難だった。その熱帯気候では、たとえ短期間であろうと、信管を有効なまま貯蔵しておくことすら難しかった。(有効な弾薬すらなかった)」
「爆撃機を一機撃ち落した。だがそれは、向こうの方から我々の砲弾に当ってくれたと言ったほうが正確だったろう」
というような証言が残っている。
』
『
TBSニュース
』
上の内容は午前中に載せたもの。
そして、午後3時過ぎに、再度「NICHIGO PRESS」を開けてみたら、下の記事が載っていた。
オーストラリア政府が神経を使っていることは確かだが、「ダーウン空襲の日」が記念日として制定され、その式典が行われ、あるいは祭日になるようなら、その日だけは普通の日より、
間違いなく反日感情は高まるとみていい。
記念日を制定することは、その国の内政であるので干渉はできないが、カオス理論ではないが、蝶のはばたきが嵐を引き起こすこともありうる。
十分に心したほうがいいだろう。
「危うきには近寄らない」ことだ。
この日は皆が心の底で日本に対して悪感情をもつことは避けられない。
「持つな」というほうがおかしい。
守る身は自分で守るしかない。
安易に「安心」しないほうがいい。
『
NICHIGO PRESS 2011年11月18日
http://nichigopress.jp/ausnews/world/30642/
「これは反日の動きではないので安心して」
北部準州自治政府主席大臣が発言
11月18日、ジュリア・ギラード連邦首相は、2月19日を「ダーウィン空襲の日」に指定したいと語った。
これは1942年2月19日、日本軍によるダーウィン爆撃を記念するもの。
同年3月にダグラス・マッカーサー米極東軍司令官がフィリピンからメルボルンに疎開しており、2月から7月にかけて、WA州ブルーム、QLD州タウンズビルにも空襲、5月31日には日本軍潜水母艦と特殊潜航艇によるシドニー砲撃とガーデン・アイランド海軍基地雷撃があった。
ギラード首相の声明に、日本人の反応を懸念したのか、ポール・ヘンダーソン主席大臣が記者会見で、
「ダーウィン空襲記念日は戦争を祝うものではなく、まして、
日本を悪者に仕立て上げるものでもない。
今では私達と日本人とは親しい友人であり、巨額の貿易相手国であり、揺るぎない同盟国だ。
北部準州(NT)の観光業界にとって日本は第3位のお客様であり、昨年度には年間2,500万ドルをNTで支出した。
この日がNTの祝日になるかどうかはまだ分からない」
と語っている。
2011年には、日本の駐シドニー総領事が、ダーウィン爆撃について日本政府からの公式謝罪を読み上げている。
この空襲では243人が死亡、大勢の人がダーウィンから疎開した。
17日、バラク・オバマ米大統領は、ダーウィン港に停泊中に空襲で沈められた米海軍艦船ピアリー記念碑を訪れた。
この艦は空襲で沈められ、かなりの死者を出している。
1942年2月19日の爆撃では日本軍の242機がダーウィン港や周辺設備を爆撃、その後も1年半にわたって64回の空襲があった。(AAP)
』
「反日ではない」
というニュースを夕方のラジオでもやっていた。
おそらくテレビニュースでもやっていることだろう。
2/3世紀もたったこの時、
なぜ、オーストラリアは「空襲の日」なるものを作って、
あからさまに反日と言わなくても「対日姿勢」を打ち出してきたのか。
答えは一つである。
アメリカ軍の駐留を認めたから。
それはつまるところ「対中国姿勢」ということになる。
いいかえれば、非安全国として中国をピックアップしたのだ。
が、である。
いまのオーストラリアは中国という親亀経済に乗っている。
中国あってのオーストラリアといっていい。
世界の不況を被らないのも、中国という資源輸出のお得意様があってである。
そのお得意様に反抗の姿勢をとったのが、アメリカ軍の駐留認可である。
オーストラリアは資源を除けば不況のまっただ中にある。
賃金は高く、物価はそれを上回るほどの高さ。
これがグルグル回って悪循環を生んでいる。
その輪から抜けられない状態に陥っているのが今の経済状況。
そのため産業はどんどんこの国を逃げ出している。
それでもコケないのはひとえに中国様々ってこと。
神様神様中国様である。
なのに、その大事なお方に弓を引いてしまった。
さあ、どうしよう。
どうしたらいい。
そうだ、日本を差し出せばいい。
そこで持ちだしてきたのが
はるか70年も昔のコケむした「ダーウン空襲」という歴史的出来事。
もはや差し障りがなくなって、損得勘定から外れている事件。
つまり、
「ダーウン空襲記念日をつくりますので、中国様、それでご勘弁を」
というわけ。
中国を懐柔するには日本の弱点部分のパフォーマンスが最適。
すぐにニコニコ顔になる、というわけ。
いいかえると、
中国をなだめるためのダシにつかわれたのが日本ということだ。
ミエミエの戦略だが、オーストラリアとしてはそれで何とか乗り切ろうという苦肉の策。
駒のないオーストラリアとしては、やっとこさの外交手札。
申し訳ないけどジャパンさんよ、目をつぶっててくれ、お願い !
この代償は大きいぞ、オーストラリアよ。
覚悟しておかなきゃアカンぞ。
日本としては、いつか
それに見合った給付をがっぽりオーストラリアからいただかなくてはいけない。
東日本大震災のとき外国政府高官で被災地を訪れた初めての人がジュリア・ギラード豪連邦首相。
そして「オーストラリア空襲記念日」を制定しろとけしかけているのもギラード首相。
アングロサクソンはしたたかである。
経済運営はダメだが、外交だけは光っている。
『
NICHIGO ONLINE 2011年12月20日
http://nichigopress.jp/ausnews/news/32360/
元日本軍捕虜収容所脱走兵に死後叙勲
政府、受勲者の近親者捜し
12月20日、連邦政府は、第二次世界大戦中、日本軍の捕虜収容所から脱走を図って射殺されたり、脱走後に再び捕まり、処刑された豪兵士20名に「勇敢殊勲章」を授与すると発表、存命の近親者を捜している。
デビッド・フィーニー国防省政務次官(連邦上院議員)は、
「政府は、今年3月に20名の死後受勲の予定を発表していた。
これまでに8兵士の家族が判明している。
残る12名の家族を捜している」
と述べている。
さらに、
「復員軍人同盟(RSL)、戦史家、復員兵士などにも呼びかけ、12名の勇敢な兵士の家族の所在を知っている者がいれば、名乗り出て欲しい。
クリスマスも近づき、私達は、太平洋地域や中東の安全と治安を守っている豪兵士に思いを馳せているが、ひととき、捕虜収容所で苦難を体験した捕虜のことも思い出そうではないか」
と述べている。
政府の決定は、イギリス政府が、敵収容所から脱走中に死んだ英兵捕虜を叙勲したことを受け、Defence Honours and Awards Tribunal(国防省論功行賞審査局)の調査勧告による。
イギリス政府の場合は、ドイツ軍の捕虜になった豪兵95名を含め、Mention in Despatches(MID: 特別勲功者)として表彰した。
豪審査局は、
「日本軍に囚われ、MID表彰を受けた豪兵士は少なくないが、捕虜収容所から脱走を図ったり、脱走後に捕まって処刑された20名のことは長年見落とされてきた。
このようなことを考慮の上、次の20名の勇敢殊勲賞死後叙勲が適切と決定した。
Private Alexander Bell, 29; Sergeant Joseph Bell, 27; Private Joseph Bell, 32; Gunner Thomas Cumming, 32; Sergeant Clifford Danaher, 24; Private Victor Gale, 23; Gunner Alan Glover, 31; Signalman Howard Harvey, 21; Sergeant Caryle Jones, 27; Major Alan Mull, 41; Warrant Officer Matthew Quittenton, 37; and Gunner Arthur Reeve, 21」
と述べている。(AAP)
』