2011年11月23日水曜日

ノルウエイの森:横圧縮技法の虚構世界?

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● ポスター


● ロケ地


● google画像より:主演者たち



昨夜、「ノルウエイの森」を見にいった。
火曜日というのは、日本での月曜日にあたり最も人出のない曜日。
夕方になるとどんどん店じまいをしてしまう。
ちなみに木曜日は「レイトナイトショッピング」といって夜遅くまでショッピングのできる曜日。
といっても月曜日から水曜日までに沈滞したムードを吹き飛ばそうと無理に作られた感じがしないでもない。
翌金曜日から日曜日にかけての商戦に気合を入れるためにあるのかもしれない。
火曜日は昼間でも映画が割引きになる。
まして夜。
やはりガラガラ。
ざっと数十人ほどの観客しかいない。


● 上映映画館前

さて、本題。
虚構の上に虚構を重ねるのが小説。
いかに読者を作家のイメージする虚構の世界にいざなうかが小説の本領。
そういう虚構にギクシャクを感じる作家は私小説の領域を開拓する。
村上春樹は虚構創作者として最も世界に知られた作家であろう。
だが、時にわからぬ世界を構築してしまうことがある。
『ねじまき鳥クロニクル』、これ読んでいてさっぱりわからなかった。
わからぬ世界がわかる世界の人もいる。
読者の生態的嗜好によるのかもしれない。

映画が始まる。
突然に違和感が起きる。
なんだこれ。
安保闘争時代がバックグランドなのだが。
この闘争を知っている者にとって、明らかに映画との時代差がある。
安保闘争時代はこうだった、という経験からモノを見てしまう。
私小説なら、「ウソだ」となる。
だがこの作品、虚構小説。
文章文体の中に巧みに虚構を創りだすのが小説。
だが、映像でそれをとらえようとすると、映像が限りなく近い現実を表現してしまう。
この記憶としての時代から、いかに虚構の世界にもっていくか、そこが問題。
現実の上に虚構を創り上げるということの難しさ。
この映画の監督はそれをある手法で成し遂げている。
スクリーンの縦長技法である。

昔、テレビで日曜映画劇場などをやっていた。
このとき、シネマスコープの画面をどうして「4:3」のテレビ画面に移すかというと問題があった。
テレビ局はイージーに映画の横を圧縮してテレビに写した。
縦を基準にして、横を締めこんだのだ。
とすると、写っているものがみな細長くなる。
やたらと出演者がスマートになる。
ばあちゃんが言っていた「映画の俳優はみな痩せてカッコいいね」
このころテレビは14インチが主流であったが、その後16インチ、18インチと大きくなるに連れてこの方法では現実とそぐわないアラが見えてきた。
そこで、この方法は終わりをつげた。
次なる方法は横を基準に、そのままテレビにシネマスコープの画面を移した。
どうなったかというと、画面の上下に使われない横縞が真っ黒に発生した。
画面が大きくなりつあったので、こちらのほうがマトモなので、以降これが標準になる。

この映画監督が使ったのが、縦長技法(横圧縮技法)である。
といってもわずかだが。
よって出演者はみなスマートになる。
これにより実体としての人間表現が消えていく。
人間が人間でなくなる。
生身の人間が画面の人間に改変されていく。
そこに虚構の世界が作られていく。
この虚構の世界に入るまで、あるいは画面の形式になじむまでと言ってもいいかもしれないが、
はじめのしばらくはギャップに苦しむことになる。
慣れてくると、これは創作虚構なのだ、小説なのだ、現実とは違うのだということが実感できるようになり、それによって切り離されたスクリーンの中に「小説」を見ることになる。
この作品、つまり「見る小説」なのである

監督はこの横圧縮技法を持ち込むことによって、自在に小説を映像化する。
例えば、ごく見慣れた台所や洋室を遠近感を消して画面に取り込む。
その結果、まるで違った別の世界を創り上げている。
奥行きがない、のである。
通常、窓の向こうは青空が広がるが、この作品のカメラワークに映る向こうには連なる隣の家の窓で、それがあたかも空間の恐怖を打ち消すかのように映るのである。
空は絶対に見えないのである。
遠さを極端に嫌ったカメラになっている。
街を歩いているにしても、大学食堂のシーンにしても。
日本の監督なら絶対に、遠くを大切にするだろう。
いわゆる余韻を取り込むために。
だが、この監督は小説を画面の中で作ろうとする。

ここで疑問が沸く。
本当に横圧縮技法が使われていたのか?
もしかしたら、そう見えただけではなのか。
いえ、普通に撮りましたよ、と言われるかもしれない。
間違っているかもしれないが、私にはそう見えたのである。
演じる人間から生身さが漂ってこないのである。
そう解釈することによって、虚構世界に横滑ることができたのである。

セリフが少なく、画面が次々変わる。
やたらとと長いセリフの映画がある。
セリフで理屈を読者に押し付けようとする。
その間、アップが続く。
「わたしゃ、アンタの能書きなんか聞きたくないよ」
と目をつむり、次のシーンに変わるのを待つのが結構多い。
この映画のセリフ、画面をつなげるだけに役割しか担っていない。
セリフが接着材の役目をしている。
それも僅かな量で。
そして、思い出のように別のシーンが挿入されてくる。
映画的なストーリーではではないのである。
見るほうは、そこから小説的余韻が想起される。
理屈はあってはならないのである。
ストーリーもあってはならないのである。
どこまでも、映画上に小説を作っているのである。

そして、遠さを抑えた画面が一気に解放される
それが「ノルウエイの森」
いかにして、この遠さを近さとして画面に取り込むか。
さて、ノルウエイの森の風景を遠さとしてとらえるか、近さとしてとらえるか、足を運んで鑑賞してみてください。
人それぞれかもしれませんが。
この映画、「映画の中に小説を作っている」というのが私の感想です。


下の写真は先に載せた日豪プレスの映画評である。
ウエブサイトに載っているか調べてみたが見つからない。
よってコピーしてみます。



ノルウエイの森
Norwegian Wood/MA15+
★★★☆(TK)公開中

1987年に刊行された小説「ノルウェイの森」は大ブームとなり、作者の村上春樹は一躍人気作家の一人となった。
そして、同作品は現在一千万部を突破し、国内小説発行部数歴代1位を記録更新中。
さらに海外でも36言語に翻訳され出版されている。
その世界的大ベストセラーを松山ケンイ主演で映画化。
共演は、映画「バベル」でアメリカのアカデミー賞にノミネートされた菊地凛子。

ストーリーは、学生運動が盛んな昭和40年代。
高校時代の親友キズキを自殺でなくしたワタナベは、誰も知らない場所で生活を始めるために、東京の大学へと進学する。
しかし、ある日、キズキの恋人だったナオコと再会する。
いまだにキズキの自殺から立ち直っていないナオコ。
そして、そのナオコとは対照的なミドリと出会い、彼女にも惹かれていくワタナベ…。

多分、多くの人が既に原作を読んでいると思う。
自分も当然のように読んでいたが、正直内容は全く思い出せなかった(文庫本がクリスマス・カラーの装丁だったことは、しっかり記憶にあるのだが…)。

「ノルウエイの森」から始まり、「風の歌を聴け」「羊をめぐる冒険」「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と、村上春樹に一時期ハマって読みあさっていた時期があったが、かなり昔のことで、読んだことしか記憶にない。
なので、この映画を観ても、小説との比較は全くできなかった。
逆に言えば、原作にイメージにとらわれることなく、純粋に映画として楽しむことができた。

まず感じたのは、時代性。
もろに昭和のファッションだったり、赤電話などの小道具も細部にわたって忠実に再現されていて、これがものすごく新鮮。
タイトで襟の大きな柄シャツとか、縦縞のパンツとか、かなりカッコいい!

そして一番は、やはりベトナム出身の監督トラン・アン・ユンらしい、どこかアジア的で無国籍な感じのする不思議な世界。
アジア方面に旅行に行くと、昔の日本を感じ、子どものころにタイムスリップしたような甘酸っぱい気分になることがあるが、まさに、そのジャパン・ノスタルジーを感じる。

同監督の「夏至」を観た時、ハノイが舞台になっているが"お洒落な昭和"っぽい雰囲気も醸し出していて、同じアジア人として、感性に触れる作品だった。
同時に、野菜をタライで洗うシーンや、髪を洗うシーンなど、水が重要な小道具になっていたけど、今回もやはり、雨のシーンなどは、画面からアジア特有の湿気を強く感じた。
特に乾燥したオーストラリアで生活していると、この湿り気が妙に懐かしい。

また、やたら登場人物が早足で歩きまくるが、不思議とゆっくりとしたトーンで覆われている。
ただ、日本人監督でないためか、セリフ回しは馴染んでいない気がしたのは残念。

大ベストセラーで原作との比較をしてしまいがちだが、原作は一切忘れて、美しい撮影、絶妙な音楽の使い方など、原作との比較をせずにトラン・アン・ユンのお洒落アジアンの世界にどっぷり浸るのが正しい見方かな?
個人的には、一部で大根とか言われているミドリ役の水原希子のツンデレぶりがツボ。



インターネットにこのロケ地の記事がありました。
抜粋で。

毎日.jp 2010年11月10日
http://mainichi.jp/tanokore/column/jojima/004135.html

村上春樹さん原作の映画「ノルウェイの森」が12月11日に公開される。
そのロケ地となった兵庫県中部の神河町を訪ね、晩秋の山野を歩いた。
落ち葉のかすれ合う音に耳を傾け、黄金色に輝くススキの穂波に包まれながら、あの小説が奏でる静ひつな官能に浸る一日となった。



神河町では08年秋から09年夏にかけて何度か撮影が行われ、ベトナム系フランス人のトラン・アン・ユン監督はじめ出演者たちが滞在した。

「ご覧のように、撮影前日なのに雪がありません。
冬の場面の撮影なので困りました」。
山下さんは自分の撮った写真を見せながら苦笑したが、続いて一面の銀世界の写真を映し出し
「前の日の夕方から雪が降り始め、一夜にして積もったんです」
と相好を崩した。

さらに、夏の風景が画面に広がり、草原内の移動撮影用レールが見える。
「もともと40メートルしか用意していなかったのに、監督は明日までに120メートル必要だ、と言い出しました。
驚いたことに、一晩で東京からトラックで取り寄せたんです。
監督は妥協をしないので、風を吹かせたいからと、こんどはヘリコプターを呼び寄せました」





ちょっと思い出したことがある。
この小説の中でヒロインはいつもスラックスをはいていなかっただろうか。
主人公がそれを尋ねると、確か「足にキズがある」とか答えていたように思うのだが。
日本にいれば、ついでに書店によって文庫本でも買って、読み直してみるのだが、ここでは本そのものを見つけることが難しい。
といって、日本から送ってもらうほどのことでもない。
別の本かもしれないし、記憶としてはあいまいである。
まだ「1Q84」も読んでいないし。


ノルーウエイの森:






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