2011年11月26日土曜日

星を追う子ども:筋が二本ある

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● 映画館前の飾り付け


● 「星を追う子ども」は 2011 Gold Coast Film Festival の目玉


● スポンサーリスト


 昨夜は映画にいった。
 ゴールドコースト映画祭のメインフィルムである「星を追う子ども」。
 そして日本人にとってはなんとも楽しいチャンバラ時代劇、「十三人の刺客」の二本立て。
 どちらもお客さんは百人ほど。
 三百人弱くらいは入れる映画館だからガラガラといっていいだろう。
 2つを比べると「十三人の刺客」のほうが少し多いように感じた。
 また、「星を追う子ども」の開始時間は午後7時、それに金曜日である。
 なら子どもたちが多くいていいのだが、ほとんど子どもの姿はなかった。
 端的にいって、アニメにひかれるのは、子どもではなく高校以上の若者のようである。
 アメリカンアニメは興隆している。
 通常、3Dのグラフィックス。
 でも、日本のアニメのようにセル画はあまり子どもには受けないようだ。
 
 まずは、「星を追う子ども」から。


 宮崎駿の「トトロ」風に始まる。
 トトロでは引越しのとき、荷物を運ぶのにオート三輪が出てくる。
 それも昔懐かしいバーハンドル(ヘの字ハンドル)のヤツ。
 この映画でも踏切を渡ってオート三輪がとことこやってくる。
 でもこれ、確か丸ハンドル時代のダイハツのオート三輪だと思う。
 メルフェンチックな物語かなと思う。
 が突然、鉄道橋の上に古代怪獣が出現する。
 なんだ、コリャ。
 さらには、丘の突き出し岩に最新型攻撃アパッチ・ヘリがあらわれ、機関銃をぶっ放す。
 それもこの相手にしているのは怪獣ではない、人だ。
 まるで話がメチャクチャ。
 何なんだ、これは。
 これは果たして見る価値があるのかと逡巡する。
 実際そう思った人も多かったようで、ダメだと思って席を立った人が3人ほどいた。
 この気持わかるような気がする。
 これが前置き。
 物語はこれから入っていく。
 新海さんに悪いが正直いって、この前置きは決してほめられたものではない。
 人を引きつけない。
 
 ストーリーを引っ張るのは学校の先生の意志力。
 なくした妻を生き返らそうという決意で地下へ入っていく。
 古事記のイザナミ・イザナギ物語と同じストーリーをアニメでいく。
 なら、少女はなんで。
 つまり、「なんでこの少女は星を追うのだ
 こうある。



 「私はもういちど、あの人の声が聞きたいんだ
 ただこれだけで黄泉の国へ足を踏み入れようとするのは説得力がない。
 行動するに値するインパクトがない。
 そのため、少女はズルズルと先生に引っ張られるがごとく、ほとんど考えることもなく一緒についていってしまうような感じを与える。
 実際に、ストーリーの中でこの少女はあの人にも会っていないし、声も聞いていない
 「声がききたいんだ」、という行動動機が何か非常に曖昧に終わってしまうのである。

 この物語は冷静に見ると先生が主人公である。
 少女はそれにアニメ的彩りを添える脇役でしかないのだ。
 その脇役のシーンを子供向けを意識しているのだろう、ふんだんに取り入れている。
 ために、筋が二本あるような、変な錯覚に陥ってしまう。
 いったい、この物語の主筋は何だろう。
 何を言いたいのだろう。
 そんな気分を持ちながら要領を得ないままでフィナーレを迎えてしまうことになる。
 
 千と千尋のときの水の映像がスゴクきれいであった。
 「うまいな」と感心した。
 新海さんは空の扱い方が上手。
 そういえばノルウエイの森では空を撮さないと言ったが、このアニメは空でもっている。
 だから「星を追う」。
 映画というのはいろいろ撮り方があるものだと思う。
 アニメの画像はいいですよ。
 これからがもっともっと期待できる。


 私は新海誠の他の作品、『雲のむこう、約束の場所』、『秒速5センチメートル』は見ていない。
 「星を追う子ども」が最初の映画。
 もしチャンスがあったら、この2作品も是非みたいと思う。




 <まぐろの目玉> 



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